宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎 村山斉 幻冬舎新書

引用①
「重力が空間を曲げるから引力が働く」と説明したのが、アインシュタインです。

引用②
星やガスなど宇宙にあるすべての原子をかき集めても、全エネルギーの4.4%程度にしかなりません。…天の川銀河全体の星やブラックホールなどをすべて集めても 、太陽系を引き留めておけるほどの重力にはならないのです。 …「銀河」とは名ばかりで、実のところ、それは暗黒物質の溜まり場のようなもの。…しかし、原子と暗黒物質を合わせても、まだ27%。…宇宙の膨張が「加速」していることがわかりました。…そうだとすると、「投げたボール」を透明人間のような何者かが後ろから押しているとしか考えられません。その「何者か」が、暗黒エネルギーだと考えられています。宇宙という「箱」がいくら大きくなっても薄まらずに、その膨張をぐいぐい後押しする謎のエネルギー。そんな得体の知れないものが、宇宙の7割以上を占めているのです。

引用③
見ることができるのは、宇宙誕生後38万年あたりまでです。なぜなら、それより昔の宇宙はあまりに熱いため、原子が原子の状態を保てず、原子核と電子にバラバラになってしまうからです。…宇宙の「壁」の向こうでは、さまざまな素粒子が高エネルギー状態で飛び交っているわけですが、これは地上の実験室で調べることができます。望遠鏡では見ることのできない宇宙初期の姿を探る―それが現代の素粒子物理学なのです。

重力が空間を曲げるから引力が働くとか、暗黒物質、暗黒エネルギーなど、少しだけ宇宙の仕組みを知ることができて、刺激的だった。(中盤は全く理解できなかったが…)

世界史とつなげて学べ超日本史 茂木誠 KADOKAWA

引用①
かつて隋唐帝国の脅威にさらされた日本人は、中華文化を積極的に受容しつつも、帝国に組み込まれることを拒否しました。

引用②
なぜアジアで日本だけが植民地化を免れ、先進国の一員になれたのか?すでに16世紀の戦国時代、日本人は欧州列強と肩を並べる軍事力を手にしており、「鎖国」というブランクを経ても潜在能力は変わらなかったからです。

引用③
それぞれの時代のグローバリズム覇権国家につねに抵抗しつつ、先進文化は貪欲に吸収して自らのものとし、日本文明ともいうべき独特の価値観を守り抜いてきた。日本人とは、そのような人々でした。

グローバリズムナショナリズムという立場で外国と渡り歩きながら、日本史は紡がれてきたことを教わった。日本人のたくましさを感じて勇気付けられた。現代の日本も含めた世界情勢と照らし合わせて、今後も読み開きたい一冊。

嫌われる勇気 岸見一郎 古賀史建 ダイヤモンド社

引用①
ニーバーの祈り
神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを見分ける知恵をさずけたまえ

引用②
「仕事」とは、会社で働くことを指すのではありません。家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが「仕事」なのであって、会社など、ほんの一部にすぎない。会社の仕事だけしか考えないのは、人生の調和を欠いた生き方です。

引用③
人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

過去の後悔や未来への不安に縛られていた気持ちから解放された気持ちになれた一冊。語られていた理論を実践していきたいと思った。

転職の思考法

という本を読んでいる。転職するに当たってのいろいろな考え方は本当に勉強になった。読んでいて感じた違和感は、前半が自分の市場価値を知るということで、後半が仕事の楽しさとはなにかということだったのだけど、本では前半の部分をしっかり考えて、後半は後付けという感じだった。

僕にとって重要なのは、仕事の楽しさについて。伸びている市場に身を置けというのが、全体を通して重要なこととされていたのだけれど、僕にとって重要だと感じていちばん納得がいったのは仕事の楽しさについてのくだり。僕のやりたい仕事というのは、伸びている市場とは言いがたい分野のような気がする。ただ目をつけている人が少ないからこそ、自分にも活躍の余地が大きいのではと感じる分野。

そんな分野で生きていく力が身につくのだろうか。この〝生きていく力を身につける〟というのも全体を通して語られたテーマだったと思う。仕事はお金を稼ぐためのものと考えれば、伸びている市場に目を向けることが重要だというのは理解できる。

そういえば判断の軸を作るということも語られていた。軸があれば、決断できる。その軸が市場価値であり、仕事の楽しさ・やりがいであることだという。どちらも必要ということなのだろうか。

1%田園回帰戦略という考えを最近知った。それは過疎地域で、人口減少を食い止めるために必要な最小限のポイントに、限られた人材や資産を投入することで効果を最大化すること。それは決して伸びる市場価値が存在する場所ではないけれど、やりがいはある。

適度な規模感を僕は求めている。それは起業するということなのか。でもそんな大それたことはきっとできない。この1か月くらい仕事がうまくいかないっていうだけで、僕の心はボロボロに疲弊してしまった。起業なんていうプレッシャーに耐えられるほどのメンタルの強さは僕にはない。

僕にとって規模感は大事なポイントだと思う。今は小さいけれど、将来的には伸びる市場を探せってことも書かれていたけれど、大きくなることを僕は望んでいるのか。伸びるという言葉に、行き過ぎた資本主義といったイメージをもってしまう。

成長すること葉環境に付加をかけているのではないか。だからこれからもとめるべきは適度な成長と環境との共存ではないかと考えてします。そんな考えと、伸びる市場という思想が克ち合ってしまう。

そんな部分がピンと来ない。でも生きていく力を身に着けるためには、伸びる市場という考えが必要なのかもしれない。でも 伸びる市場 と言ってもバリバリ仕事をするということではないかもしれない。モノをどんどん生産するということではないかもしれない。モノではなく形のないサービスを生み出す。資源を消費するのではなく、消費しなくても満足感を得られるサービス。そうしたサービスを生み出してお金を得るためには、モノを買うという以外の所得の生み出し方があるのかもしれない。

昨日、前の現場の先輩と会って話したけれど、今の現代人は 答えはネットで手に入れてしまう。だからテレビに求めているのは、熱い情熱を呼び起こすものであったり、心が揺さぶられる衝動だったりするんだって話をしていた。答えとか結果が欲しいのではなく、満足感とか高揚感とか、やっぱりモノではなく心を満たすサービスが欲しい時代なのかもしれない。そんなサービスを生み出す仕事、それによって利益を得られる仕事、その利益が伸びる市場を探せっていうことなのかな。

 

 

プレゼン直前

来週のミッションのプレゼンのための頭の中の考えをまとめてみる。

なんとなくテーマ設定するなら、
ふるさと納税への規制が地方の進化を阻む?
ということか。これについては後で考え直そう。

総務省が、ふるさと納税の返礼品に規制を設け、自治体に遵守するよう求めた。
守らなければ、法律で、寄付金の控除対象から外す方針を示した。
お得だということが、ふるさと納税するモチベーションになっていたが、控除がなければ、納税しようとする意欲は失われていくはず。

納税しようという意欲を生んでいる大きな要因は、返礼品。この返礼品競争が問題だという。

確かに問題の多い制度なのは間違いない。
設立の趣旨から言えば、ふるさとを思っての納税という意識からかけ離れていると考えられる面もある。

大都市の税収が失われて、保育園など公共施設の建設費なみの税金が失われているという現象も生まれている。

返礼品を規制することで、純粋な寄付をしたいという精神を広めたいという思いなのだと思う。

一方、自治体としては、返礼品開発によって特産品を発掘、開発したり、地域内外にピーアールするという効果を生んでいる。
アピールに成功するとこで地域に愛着と自信を生んでいる(こうした自治体の実例は示した方がいいね)。

規制はそうした自治体の努力に水を指すことにならないか。
総務省としては、高価な返礼品に頼らずにアピールしてほしいということなのだろう。
また、お得感だけで納税する人が多いということを非難しての規制でもあるのだろう。

お得感で納税することを悪だと考えられるのか、という点も議論すべきかも。

税金の使われ方について、考えさせることは、ふるさと納税の趣旨でもある。

ただただ天引きされている税金について僕らがどれだけ思いを馳せているかといえば、ほとんど考えない。
ふるさと納税はお得なショッピングをしているだけだと軽蔑するよりも、
商品の先にある自治体の思いを感じさせることにつながっていることを評価すべきでは。

税がどう使われているかまったく考えない生活より
欲をかいてでも ふるさと納税に取り組んで、
自分の税金で地域に貢献しているんだと上っ面にでも話せることを評価すべきではないか。

毎年増えていく、国債や医療費などの社会保障費についてだって、
僕らの意識にはほとんど上がってこない。

日本人は見えるものにしか価値を持てないと、言う人がいるが、
実際問題 見えない税金について考える学校教育がされているわけではないし
その代わりに税金の勉強になっているのが ふるさと納税ではないか。
お勉強ではなく、満足感を味わいながら 税を考えられる素晴らしいツールではないかと思う。
ふるさと納税を教育的に利用している取り組みってないかな。
こんなに分かりやすい税金の教育ツールはないと思う。

ふるさと納税をやっている人は全体の納税者の2%程度だという。
これってそれほど多い数ではないよね。
もっと広めることに知恵を絞ってもいいのではないかな。

ちなみに収入のない 年金受給者や未成年、専業主婦などは、そもそも納税者にはならないので
ふるさと納税にとっては節税メリットはない。年齢構成が知りたくなった。
きっと納税者が中心となる20~50代が中心になるのだと思う。

でも税金を納めていないとしても、単純に寄付としての入り口として
返礼品が目に見える扉になっている。それが広がっていることは評価できる。
節税というメリットがなくても、何かしたいという人に訴えかけることはあると思う。
ここまで地域が目に見えるようになったことはすごいことではないか。

ここからは、ふるさと納税の現状を憂いている人たちとの対話も試みてみたい。

大都市から流出した税収入についてはどうか。
数十億に及ぶ流出額を見れば、それだけの額があればできたことはたくさんあったはずだ。
では何ができたか。その使われ方を選択するのは誰か。
住民は間接的に関わっていることになるのだろうけど、
失われるまで、何に使われているかを考えさせるきっかけがなかった。
いまって使えるお金はどこにもないというのが個人的な認識。
だから知恵をしぼらなければならない時代なんだと思う。

それに流出を招いたのは、住民自体なのだから、流出の原因を問うなら、
その土地の住民ということになる。
必要なのは自治体は住民との対話じゃないのかな。
自分の首を絞めることになるってことを、ふるさと納税を行う住民に語りかけなければいけない。
ふるさと納税を行っていない人との不公平感が生まれることを伝えなければいけない。
そうすることで、住民税がどう使われているかを考えるきっかけになるのだから
これをチャンスと捉えたらいいのでは。

こども宅食のクラウドファンディングというふるさと納税の取り組みはアイデア賞ものだと思う。
困っている人を助けるために自分の税金を使えますよというアピールには心打たれる人が多いのでは。
地元の住民は、節税にはならないけれど、賛同するなら寄付をすればいいってことになる。
これで地元の人間はなんで優遇されないんだっていう人はいるんだろうか。
それよりもほかの地域の人たちが、自分の街のためにこんなに力を貸してくれるということが、
目に見える形になるから、感謝の気持ちが生まれるんじゃないかな。

しかもこのクラウドファンディング型のふるさと納税って、
返礼品3割という規制とは無関係だから、今回の事態の影響はない。
でも ふるさと納税する人が 規制で減ってしまうことになれば 
こうした取り組みを知ってもらう機会も減ってしまうのではないか。

お得感が目的という人がいたとしても、ふるさと納税を入口に、
さまざまな形の返礼品を目にする機会を狭めてしまうことは、
さまざまな地域に思いをはせる機会を奪うだけのような気がする。

ふるさと納税は、全国放送の情報番組みたいなものだと思う。
都市圏なら、番組で紹介された特産品や観光情報を見て 
気軽に行ってみたいなと思える情報が多く得られる。

地方に行けば そこまで足を運んでまで という情報を発信しづらいし、
発信しようというモチベーションも起こらない。
ふるさと納税は どんな遠隔の過疎地だとしても、情報発信に参加できる情報番組みたいなものだな。
外から見られる目を持たないと 見せようという気持ちも生まれない。

これってもうひとつの問題点。勝ち組負け組の格差の拡大しているという議論との対話になる。

都市部以外にも、納税額を増やせない自治体がある。
減少分の75%は交付金で補完されるということらしい。
それなら現状より微減という状況かな。
全体として3000億円という額は 小さい自治体ほど影響が大きいという傾向はあるのかな。
困っている自治体って何だろう。あまり話が広がらない。
富良野町は、返礼品に頼りたくないという方針を変更して、返礼品を設置したという。
頼りたくないっていうのは、寄付は純粋な気持ちでもって行うものだという精神を優先したいということがあると思う。
でも周辺自治体が返礼品を取り入れる流れに乗り遅れまいと返礼品を導入し始めたという。
いまから返礼品導入のノウハウを蓄積するのは時間がかかるだろうし、
外部の知恵を借りるにしても、外部に依頼するお金があるのか?
人も物もお金も不足している地方都市の課題を解決できるかどうかをふるさと納税の功罪で語ることはできないけれど
それをツールのひとつとして活用するという選択肢が生まれたと考えればいいのでは。

次の対話に移ってみよう。地方に関係のない返礼品を取り入れるのを制限するという考えについて。
商品券は換金されるのでダメとか、ゴルフ用品はダメとか、地産品でないとダメとか。
地産品の定義ってなに?と考える。
ある地方にはサーティーワンアイスクリームの商品券を返礼品にしていて、それはダメっと総務省からお達しを受けたという。
でもその地域には、きれいな水環境があって、サーティーワンの工場が誘致されていた。そこで生まれる雇用への貢献になるという考えで返礼品に取り入れていたが、これを地域に貢献する地産品と考えることは間違ってはいないと思う。
ビールやアイポッドやダイソンを返礼品にするなら理由は必要だよねとは思うけど。
返礼品には 生産者の思いとか ストーリーとか その背景が見えるアピールの仕方が必要だと思う。
価格がお得だというアピールに走っては、自治体としての役割を果たせているとは言えないのではないか。
自治体の役割は、余裕のある人が困っていることを助けることらしい。
それは置いておいても、自治体が買い物をするスーパーやコンビニって扱われることには、
自治体に関わる人には違和感があるんだろうな。
お買い得商品満載のスーパーやコンビニとしての魅力を感じている納税者も多いのだろうけど。

3割以上の返礼品を置くとか、地産品ではないものを置くというのは苦肉の策なんだと思う。
本当は地産品を置きたいけど、地産品に乏しい。だから、やみくもにお得感でお金を引っ張ってこようとする。
やっぱりそこは、人モノお金がない過疎自治体のような場所の課題を解決する別の方策が必要なんだろうな。

総務省の規制を守らない一部の自治体が制度をゆがめているっていう議論との対話。
ここでもふるさと納税をやっているのは納税者の2%という数字が気になる。
3割、地産品を守らない自治体があることと、ふるさと納税が集まらない自治体があることは関連することなのだろうか。
お得感で納税する人は、お得感しか見ないだろうし、
貢献したいという精神が少しでもある人なら、返礼品の価値を儲けだけではなくて、貢献度がどれだけ見えるかで判断すると思う。
お得感を求める人を許さないという態度で、全体の納税額を小さくなってしまったら、
工夫をこらした返礼品を設定しているところに、人々の目が届く機会も減ってしまわないかな。

この議論は 先の納税の意識を変えるってところにつながる。
問題点が多い制度だと言われているけれど、結果的に地方にお金が流れているし、
税について 目に言える形として人々の分かりやすく示すツールになっている。
自治体に これほど変化を与えている制度を 理屈だけで批判するのはもったいない気がする。

「もったいない」ってことばがはまるのかな。
不公平感はあるけれど、この制度がなくても困ることはないけれど、上品ではないかもしれないけれど
結果は出しているし、自治体に柔軟性をもたらしたり 本来の趣旨に意識が向いている人が生まれたりしているのだから
そこには目をつむってもいいのかな。

スポーツをすること

バイトの男の子に、以前、取材した大学運動部の脱体育会系の取り組みの話をした。
その子も大学ラグビー部に入っていて、取材したラグビー部の話は有名だったし知っていた。

練習の辛さをどう受け止めるかみたいな話をした。
好きで始めたスポーツなのに、練習は辛いし、試合で勝つためのプレッシャーには耐え難いものがある。

脱体育会系っていうのは、楽しむことでパフォーマンスが上がるって考え方。
なかなかそれを実践するのは難しい。
練習の辛さを否定することはできないし、自分でも必要なものだって思ってしまう。
辛さに耐えることで生まれる自信とか、結果に結び付くこともあるから、辛さを楽しさに転換するってことに、うまく実感できない。

でも、勝つことを忘れて、結果を出すことを忘れて、目の前の練習にだけ集中できたら、仲間やコーチのことも忘れてしまうほど、自分で納得して練習に取り組む。隣を見たら、みんなもそうしていて、練習が終わると清々しい顔をしている。そんな学生生活を送りたかったなと思った。

結果や成績を人と比べず、その時その時の自分のパフォーマンスにだけ集中して、終わってから自分ので状態を振り帰って見つめる。

運動能力には、素質が関わってくるから、人との優劣が明確に現れやすい。そこじゃなくて、自分の限界が広がる体験をささやかに喜んでスポーツに打ち込めたら幸せだと思う。そんな幸せをすべてではなく、ほんの少しだけでも共有できる仲間付き合いがあればいい。

いまの仕事に向いてないのかな

また先輩の話。
自分は20年この仕事について、今になって向いていないことに気付いたといってた。

僕に向かっても、仕事を変えるなら今だよって語りかけていたようだ。

先輩は頭の回転が早い人だと思う。
そんな人でも自信を失うことがあるんだ。

20年やって資格がとれるとか、形となって人に認められるものがないってことを悲しげに語っていた。

僕に向かって言ってるんだなっていうふうに感じた。
俺みたいになるなよって、言っているように聞こえた。
気持ちが楽になったような、少し寂しいような気持ちになった。

僕の今の気持ちとしては、仕事のスタイルを変えたいって強く思っている。仕事に1日のほとんどをとられる形から、他のこと、家事とか勉強とか、ボランティアとか、複数の仕事に少しずつ関わるとかにシフトできたら素敵だと思うし、自分と周りの家族が幸せになれるように自分の力を発揮したい。

いまの仕事から、なんとなくとか、仕方なくとかいう気持ちで離れられない人は多い。それは、この先輩だったり、奥さんだったりする。僕だって二の足を踏んでいる。

だからこそ思うんだけど、僕が今の仕事から離れるって姿を見せたら、彼らの心に何か、はっと立ち止まって考えさせるようなきっかけになるんじゃないかな。それが良いことなのか悪いことなのか分からないけど、このままでいるってことは後悔を生む気がする。

いや、やっぱりそれは強がりだな。自分を奮い立たせて、言い訳してるだけだって、これまでに何度も同じ感覚を味わってる。
気分とか雰囲気だけじゃ、僕は前に進めない。

これまでに味わったことはないけど、積み上げていった結果、自然とその道を選んでいたとか、気付いたら今の場所にいた、みたいなのが理想。

僕は理想が好きだ。自分で納得できないことはしたくないし、できない。
今の職場は、納得できないって感覚に包まれている。
誰かを責めたりはできない。
誰かを頼ったりもできない。
自分のことは自分でやるしかない。
それが人に相談できないっていう悩みを生んでいる。

自立と孤独を並べて考えるとつらくなるからやめよう。
自分の人生を自立して行きながら、孤独に心を支配されないように生きていくやり方を選ぼう。答えはひとつではないし、悪い心理状況に陥るパターンもひとつじゃない。

どうにもならないなんて事態は、これまでなかった。どうにかするしかないし、どうにでもなる。

先の先輩の言葉に応えるなら、そんなことを言えばいいのかな。